遂に完結した進撃の巨人という物語を語る
対立する正義と一貫したエレンの思想
11年半にわたり連載が続いた進撃の巨人。高校生の頃にアニメが始まり、その頃から一気にのめり込みました。一番のめり込んだ作品と言っても過言ではありません。
壁に囲まれた世界観、不気味な巨人たち、そして、決して勧善懲悪で語ることのできないストーリー。そんな進撃の巨人という物語のテーマを私なりの視点で語ります。
最終巻までのネタバレ有りなので、未読の方はご注意ください。
人類史が味わった現実問題を取り扱う
進撃の巨人はただ巨人と人間が戦うバトル漫画ではなく、戦争であったり、人種差別であったりと人間同士の社会的で現実的な問題も扱います。
現実に戦争が起こるときにはどちらも自分たちが正義だと思っているでしょう。初期では人類の敵と思えた超大型、鎧、女型が始祖奪還のためパラディ島に攻撃した際も自分たちの正義のためでした。つまり主人公の単独した目線で語られ、主人公が正義という単純な話ではないわけです。
現実の人種差別は自分たちが直接何か悪さしたわけではなく、自分では生まれたときに選べない人種という要素だけで不利益を被ります。エレンの父グリシャ・イェーガーもその点に疑問を感じていました。しかし長い間エルディア人に被害を受けたマーレ人にとっては直接の加害者ではなくとも関係ないと父親に一蹴されてしまいます。
現実に未だ存在する問題のように、悪い奴を倒したらはいめでたしというわけにはいかないのが進撃の巨人です。最終的にエレンはこれらの問題に対し一つの選択をしますが、それが正解だとは限りません。本当の正解などない中でも進まなければならないという現実感を作中では伝えています。
自由がもたらすもの
作品を通してのテーマとして一つ目に自由があります。おなじみ調査兵団のロゴにも自由の翼が描かれています。ここでいう自由とは英語で言う”liberty”に近いです。与えられた自由ではなく、自らが進んで勝ち取る自由です。その自由について述べていきます。
エレンにとっての自由
普通に生まれて普通に生き、死んでいく人にとっては壁の中の世界は当たり前に暮らす与えられた世界ですが、エレンにとって壁の中の世界は不自由そのものでした。
わけのわからない奴らから自分たちの領域を奪われ、狭い壁の中で暮らしている人々をエレンは家畜と呼びます。この家畜という言葉はエレンの口から何度が発せられますが、ここでいう家畜は自分では何も考えずただののうのうと生きている人々を指します。エレンにとっては理解しがたい存在でした。
そんなエレンにとって調査兵団は自由の象徴として映ったでしょう。現状に甘んじず、犠牲を出しながらも自由を求め未知の領域を調査する存在は探究心をくすぐります。
エレンの考える自由とは、自らの自由意志で選択をし行動することです。この考えは第一話から最終話まで一貫しています。
巨人である自分たちの滅亡を無抵抗で受け入れるという思想の壁の王にとって、生まれながらにして他人から自由を奪われるくらいならそいつから自由を奪うという思想を持つエレンはかなりの危険反乱分子であったと言えます。
自由の反対は奴隷なのか
作中に奴隷という言葉も度々登場しますが、一番印象的なのかケニーの「みんな何かの奴隷だった… あいつでさえも…」というセリフです。
現実でも全く何も考えず、何も感じず生きている人はいないでしょう。人間である限り何らかの欲求であったり、希望であったり、夢であったりと何かを抱えています。
その何かとは人それぞれですが、いつの間にかその何かに溺れ、自分でも無意識に何かに振り回されている状態を奴隷とケニーは呼んだのでしょう。
自由を求め戦うエレンですが、ケニーに言わせればエレンは自由の奴隷です。奴隷という状態から開放されるために自由を勝ち取ろうとする意思は強すぎると結果的に、自由を求めるはずが、自由に踊らされる奴隷と化してしまいます。
自由の代償
エレンはマーレに潜入し、ファルコに会った際こう言っています。
「オレは、この施設に来て毎日思う…何でこんなことになったんだろうって…。心も体も蝕まれ、徹底的に自由は奪われ、自分自身をも失う…。こんなことになるなんて知っていれば、誰も戦場になんか行かないだろう。でも…皆「何か」に背中を押されて地獄に足を突っ込むんだ。大抵その「何か」は自分の意志じゃない。他人や環境に強制されて仕方なくだ。だたし、自分で自分の背中を押した奴の見る地獄は別だ。その地獄の先にある何かを見ている。それは希望かもしれないし、さらなる地獄かもしれない。それはわからない。進み続けた者にしか…わからない」
これは僕が一番好きな台詞です。結局周囲の期待だったり空気だったりに流された場合の結果は見えていて、自分自身で選択することが重要であるというメッセージ。その先に待っている結果はわからないけれど、それを見るために自ら進み続ける覚悟が必要ということです。
エレンが自分に言い聞かせているようにも聞こえますが、実際そのような面もあるでしょう。この時点では覚悟を決めていたに違いないからです。
その覚悟とはこの世から巨人の力をなくし、世界の人々を救うこと。ただこの世界の人々の中には現存する大多数は含まれていません。
未来をみたエレンは自分が大多数の人類を虐殺することも知っていたでしょうし、それは許されないことであることも十分に理解していました。
当初、母親を食われ、ライナーたちを憎んでいたエレンですが、自分が同じこと、もしくはそれ以上のことをするということがわかっていたので、ライナーにお前と同じだと伝えます。
グリシャが親の言いつけを破り、収容区の外に出て妹が殺されたように自由には代償がつきものです。エレンにとっての代償とは、ラムジー含めた壁の外に住む大多数の人類と自分の命です。壁の世界の仲間と巨人のいない世界が自由だとすると果たしてその代償として払った犠牲は報われたのでしょうか。
それは今後アルミンたちがどうアクションを起こすかによりますし、さらにはあの最後のシーンにも繋がります。
それぞれの正義
作品を通してのテーマとして二つ目に正義があります。 進撃の巨人に登場する人物たちは各々の正義を持っています。ライナーやジーク含めたマーレの戦士は世界を救うという正義を持ち合わせながらその真意は別のところにあります。そんな建前の正義と本来の正義のために戦う二人を見ていきます。
ライナーの正義
ライナーがマーレの戦士に立候補したのは、母親に認められ、父親と一緒に暮らすことです。しかし、それはただの幻想でそんなことは起こり得ないと知ったライナーは徐々に精神を病んでいきます。
マーレに教わった、島の悪魔と呼ばれる人々と暮らしていく中で本当は何も知らない、ただ自分たちと何も変わらない人間であることを感じ始め、罪悪感から、自分が壁を守る兵士であると思い込むに二重人格となっていきます。
マーレに戻ってからは、自分の生きる目的を見失いつつも、ファルコとガビを守るという目的を思い出し、戦います。
壁の中の人類にとっては敵ですが、ある意味ライナーは一貫して自分にとって大切な人たちと世界を救うために行動している点ではもいう一人の主人公的な存在かもしれません。
ジークの正義
ジークは生まれながらにして、エルディア復権派になるよう両親に育てられました。グリシャは親に愛されていなかった、本当は愛されていたなど議論はあると思いますが、ここで大事なのはジークの思想とは無関係に親のエゴで思想を押し付けられたということです。エレンにとってはいわゆる自由意志によって選択できない奴隷という状態です。
エレンとの違いは、自分の存在そのものを愛されていたか否かという点です。これはアドラー心理学の考え方にもつながってくるのですが、ジークは”存在”のレベルでは見てもらえず、”行為”のレベルでしか受け入れられてませんでした。
結果、ジークはマーレに密告し親を売るという選択をするわけですが、この世から自分含めたエルディア人が生まれてこなくなるようにするという目的をクサヴァーさんの影響から持つようになります。
そもそもエルディア人がこの残酷な世界に生まれてこなければ、苦しまずにすんだという反出生主義的な思想です。そのため同胞である島の悪魔エルディア人を殺すことは正当化されます。
生むという行為もジークにとってはただの親のエゴです。子供の方から生んでくれと頼んでくることはないですからね。
まるで、自分含めたエルディア人の存在そのものを否定するような考えですが、ジークの境遇や、この世界の悲惨さを考えると、安楽死計画は的外れなことでもないように思えます。
一方エレンは、両親から”存在”のレベルで愛されていました。母カルラが生まれてきてくれただけで偉いと言っているように、エレンは自分たちの存在意義を自分がこの世に生まれたからだと説きます。
エレンにとって、生まれてくるということは、特別で自由であることです。ジークとは真っ向から対立する考えなわけです。
諌山先生が伝えたかった生きる意味とは
ジークは生物の目的は”増える”ことにあると言います。死や種の絶滅は増える目的に反するため、そのために恐怖という罰則があります。ただ増えるために何の意味があるのかもわからず、戦い続ける意義があるのかと疑問を感じたジークですが、アルミンは違いました。
ただエレンたちと丘に歩きに向かって走っている瞬間が大切であったと。なんでもない一瞬が生きる意味であるのではないかと考えます。
反出生主義の考えを持っていたジークですが、クサヴァーさんとただキャッチボールをしていた時間が大切であったと考え直します。別に増えるためとかどうこうではなく、一見何の意味もないような行動にこそ意味があるのだと気がつきます。
生まれてきた理由が理解できず苦しんできたジークは、やっと生きる意味を見つけました。
生きる意味って人それぞれですが、別に何か特別な偉業を成し遂げなくともいいと思うんですよね。生きる意味と言うと壮大に聞こえますが、そんなこともないということです。
何気ない時間だったりに幸せを感じて、自分でも当たり前だと思っていることに目を向けていけば自ずと意味は見つかります。
単行本で加筆された最後のシーンの意味とは
単行本の最終話には、別冊マガジンに掲載されたときにはなかったページが追加されてました。
エレンが眠っている木の周りの文明が発達している様子が描かれています。
アルミンたちの和平交渉はうまくいったようですが、現在文明に近づいた際にまた戦争が起こっています。
現代の軍事レベルを考えると、九つの巨人や地ならし以上の威力を持ち、文明を崩壊させてしまった可能性があります。
ただ、エレンが眠っている木だけは壊されずに成長し、やがてかつてユミルが巨人の力を得た際に入った大木と同じような形状に成長します。
その大木を少年と犬が発見する形で進撃の巨人は幕を閉じます。
進撃の巨人は連載当初からループものなのではないかとファンの間でよく考察されることがありましたが、まさにそれに近いような終わり方だったと思います。
結局人間は争うことをやめられず、同じ過ちを繰り返すと言うメッセージと感じました。
エレンたちが実現した巨人のいない世界ですが、またあの少年が始祖ユミルと同じ力を得て、同じ歴史を繰り返すのか。巨人の力を得ることなく通り過ごすのか。はたまた力を得ても、ユミルの時とは違う方法で活用するのか。
それは読者の想像にお任せしますと言ったところなのでしょうが、ユミルの時と同じ歴史を辿ることはないと考えます。
犬や人間から逃げていたり、奴隷だったユミルと違い、犬を連れているようですし、追われてもいないようです。
彼ならまたユミルとは違った未来を歩むのでしょう。それがいいか悪いかはわかりませんが、エレンの言葉を借りるなら、それは進み続けたものにしかわかないといったところでしょうか。
まとめ
漫画、アニメを欠かさず追い続け、漫画を別冊で毎話読み終えるたびに一ヶ月待つのが苦痛だったり、USJにあった等身大のエレン巨人、女型の巨人を見にいったり、六本木で開催された進撃の巨人展に足を運んだりと、色々な思い出があるこの作品ですが、終わってしまい喪失感があります。
今後これを超える作品で出会えるかどうかわかりませんが、みんなと進撃の巨人が観れて良かったです。もし次回作があったらまた観にいきましょう。